【共同体主義】小林よしりんVS宮崎てっちゃん - 宮崎哲弥は新自由主義者じゃないよ
a0029616_2192488.jpg

■今、漫画家の小林よしのりさんと評論家の宮崎哲弥さんとの間で、ちょっとしたバトルが繰り広げられているようです。
と言っても、かつての『戦争論』を巡るバトルほど熾烈なものではなく、ちょっとした言い合いというか、じゃれ合い(笑)みたいなもののようですが。
  
■小林さんが『SAPIO』の「新・ゴーマニズム宣言」の欄外でこのような文章を書きました。




ラジオをよく聴くスタッフから聞いた情報によれば、宮崎哲弥は武部と家族ぐるみの付き合いらしい。
わしが見た朝の番組では、竹中を首相にと持ち上げていた。
宮崎にせよ、田原総一郎にせよ、ネオリベ(新自由主義)支持で、権力に接近する傾向が最近の文化人は強い。
それが彼らの生き方なのだろう。


■次号にて。

宮崎哲弥氏から、武部幹事長とは「家族ぐるみ」のつきあいではない、自分は新自由主義者ではない、というメールが来た。
「家族ぐるみ」は勘違いのようだ。
申し訳ない。
ただし、「武部氏とは取材でよく会食はする」し、「秘書をしている長男の新氏とは知り合い」である。
そして、どんな立場であれ、竹中氏の諮問会議に参加しているとなると「知識人の責任」は大きい。
 
その立場で、「郵政民営化には賛成」で、竹中をインタビューで持ち上げ、今の格差社会も「格差はデフレが続いたから。景気が良くなれば格差は縮む」と言っていれば、漠然とテレビを見ている者にとっては、「あの有名な知識人、宮崎哲弥さんが、竹中さん応援してはる」という「印象」を持つのは、やむをえまい。
今や大衆に相当の影響力がある知識人として、わしはテレビを見る側から「印象」で批判せざるを得ない。


■僕は、小林さんの作品を最近ほとんど読んでいないので小林さんがどのような主張をされているのか詳しく知りません。
ですので、不正確になるかもしれませんが、小林さんの言い分をザックリと説明したいと思います。

■すなわち、小泉自民党による、ネオリベ(新自由主義)的・リバタリアン(自由至上主義)的な構造改革によって、旧来の日本的な共同体は崩壊あるいは空洞化の憂き目に見舞われた。
キリスト教的伝統のない日本においては、共同体なくして個人は存立できない。
本来、共同体主義者である宮崎哲弥は、小泉自民党の構造改革路線に批判の声を上げなくてはならないはず。
なのに、批判をするどころか逆に賞賛をしている。
これは何たることか!
宮崎哲弥は共同体主義者ではなく、新自由主義者だ。
こういうことだと思います。

■これは明らかに小林さんの誤解でしょう。
共同体主義者である宮崎さんは新自由主義には批判的な立場のはずです。
ただし小泉改革に全面的に反対かと言えばそれは違う。
どういうことかというと、宮崎さんの主張は、二段階革命論なんです(論座2005年12月号「中吊り倶楽部」)。

■あっいやいや、もちろん宮崎さんの言う「二段階革命論」とは、マルクス主義者の言うところの二段階革命論(市民革命を経て共産主義革命)ではありませんよ。
旧来の差別的・封建的な共同体を一度崩壊させたあとに、再帰的なかたちで共同体を再編していくというものです(「m2われらの時代に」)。

■小泉自民党の構造改革は、旧来の日本的共同体(会社共同体やら地域共同体やら)を崩壊せしめました。
でも、それで「めでたしめでたし」とはならない。
共同体は必要です。

サンデルは日本語版の『自由主義と正義の限界』に序論として収録されている論考で、次のように反論している。

これ(共同体主義への批判)に対して、共同体論者は、不寛容が最も繁栄するのは、生活の形態が乱れ、根幹がぐらつき、伝統がゆるんでいるところであると、応答する。
今日では、全体主義的な衝動が生じるのは、確固として状況付けられた自我の自信からよりも、孤立し、混乱し、欲求不満である自我の当惑からである。
自我は、共通の意味がその力を失った世界の大海で途方に暮れている。

私は、サンデルのこの言葉の含意するところを切実な問題として、身近な危機として受け取ったつもりだ。
民衆が無責任で不寛容な群集と化し、全体主義に人々が誘引されてしまうのは、共同体が綻びはじめたときである。
共同体の規範が総崩れになり、アノミーが全社会を覆ったときである。
(宮崎哲弥著「『自分の時代』の終わり」)

■例えばオウム真理教
旧来の共同体の崩壊に伴い「居場所」「拠り所」を失った者たちが、「居場所」「拠り所」を求めてオウム真理教に入信していきました。
そして起こったのが、松本サリン事件をはじめとする一連の凶悪事件。

例えば、近年日本中を震撼させたオウム真理教事件などは、自生的共同体を転び出た者たちによって形成された「共同体なき者の共同体」の暴発と捉えるべきである。(同掲書)


■繰り返しますが、宮崎さんの「共同体」とは、差別的・惰性的な旧来の日本的共同体とは異なります。
再帰的に再編された共同体です(しかもそれは共生の場の維持と成員のアイデンティティの確保だけを目的として掲げる比較的小さな共同体です)。

・・・倫理学者の藤野寛氏は英米の共同体主義について次のようにコメントしている。

「近代化のプロセスとは、共同体という牢獄から抜け出した人間が、(都市)社会という大海の中に投げ出され、匿名の個人として生きてゆく、そういう物語ではなく、人間の集団的移動の容易化、社会的流動性の拡大によって文化の多元的共存状況が常態化し、異文化間の接触・交渉・摩擦の増大の中で、人々が拠り所となるものを求めて自らの属する文化的共同性あるいは共同体に着目する度合いが高まる、そういう出来事なのではないか。

「だとすれば、共同体主義とは、時代の変化の必然性に目をつぶり過去の遺物にしがみつく時代錯誤の声ではなく、むしろ、近代によって新たに生み出されつつある未知の経験になんとか対処しようとする真摯な理論的努力だ、と言えるのではないか」
(『アドルノ/ホルクハイマーの問題圏』勁草書房2000年)

藤野氏が正確に把握しているように、英米のコミュニタリアニズムの本旨は、そして私の評論の眼目も、旧来の共同体の復旧や復古などにあるのではなく、都市化を前提とした再帰的共同性の探求にこそある。
(宮崎哲弥著「正義の見方」)

■宮崎さんは、(小泉改革には賛成ですが)新自由主義者ではありません、
都市化を前提とした再帰的共同性の探求をする共同体主義者です。

人気blogランキングへ
[PR]
by asatte_no_houkou | 2006-03-11 02:35 | 社会の時間
<< 【悪玉】ラクをしちゃいかん。思... 『憲法9条改正』は諸外国の信頼... >>